いるかホテル

小説、映画、ノベルゲームが好きです

カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』について

新年一冊目の小説として、村上春樹が昨年訳したカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』(1940)を読んだ。

 

  • あらすじ

 1930年代末、戦争の足音が迫りつつあるアメリカ南部の貧しい町。そこで暮らす人々はみな、何らかの苦しみと孤独に闘っている。音楽の才能と知的好奇心に恵まれながらも、貧しい家庭で年下の弟たちのお守りに追われ、クラスメイトにも振り回される少女ミック。黒人差別と闘いながら、そのあまりの厳格さゆえに子どもから見放される黒人医師コープランド。劣悪な労働環境で酒に溺れながら、なお神を信じ資本主義を激しく憎む白人労働者ブラント。妻に先立たれひとりでカフェを切り盛りしながら、静かに自らの小児性愛的嗜好と格闘するビル。ある日ミックらの前に、物腰柔らかな聾唖の男シンガーが現れる。ミックらは各々シンガーに近づき、誰にも言えなかった自らの苦しみをそっと打ち明けはじめる。

 

  • 感想

 重く、静かな小説だった。いわゆる「ページをめくる手が止まらない」タイプの小説とは対極にある作品。まず本筋と無関係なところから言えば、本作は村上春樹の「最後のとっておき」という触れ込みの通り、村上作品読解のひとつの鍵となる。たとえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が『騎士団長殺し』の、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』が『羊をめぐる冒険』の、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が『海辺のカフカ』のひとつの源流と考えられるように、『心は孤独な狩人』は『アフターダーク』のような作品に見通しを与えてくれる。村上ファンからすれば間違いなく、「欠けていたピースが埋まった」という喜びがあるはずだ。

 本作の感想に入ろう。まずポジティブな側面に目を向けるなら「ミックら四人はシンガーと出会って、閉塞した環境に一縷の救いをみつけた」と言えるし、ネガティブな側面に目を向けるなら、「ミックらがシンガーに見出していたのは自分にとって都合の良いキャラクターであって、彼女らは結局のところ何も変わらなかった」と言える。

 ではそのどちらが本質的な部分なのか。私はやはり後者しかないと思う。ミックら四人も含めこの町の人々はみな、シンガーが自らの最良の友人であり良き理解者であると勝手に信じている。ここには、シンガーが聾唖であるがゆえに、誰もが彼を通じて「聞きたいことを聞く」ことができるという構造がある。それはドストエフスキーの『白痴』でムイシキン公爵が神的なものとされるプロセスと同型であるし、批評家の東浩紀はまさにこうした構造を「否定神学」と呼んで批判していた*1

 ミックらの価値観は何も揺るがされていないこと、彼女らはいわば「他者と出会っていない」ことを、マッカラーズはわかっている。それは、シンガーが古い友人アントナプーロスのことばかり考えていることからも明らかだ。シンガーの頭には、今は遠く離れたその友人とまた一緒に暮らすという夢しかない。シンガーにとってミックらは、友人と会えない寂しさを紛らわすための取るに足らない存在だ。だからシンガーは「彼らが自分にいったい何を是認してほしがっているのか、見当もつかなかった」し、「そしてミック——彼女は思い詰めた顔をして多くを語ったが、彼にはそれが何のことなのかさっぱりわからなかった」(347)のだ。残酷な話である。

 本作を貫く「どこにもいけなさ」は、シンガーにとってのアントナプーロスもまた、シンガーの作り上げたひとつのキャラクターでしかないことで頂点に達する。アントナプーロスは酒浸りで暴力的な人物だが、シンガーは彼を有徳な友人として愛し、何となれば彼にほとんどの財産を注ぎ込んでいる。つまり、ミックらはシンガーを通じて自分だけに語り、シンガーはアントナプーロスを通じて自分だけに語る。では当のアントナプーロスはどうかというと、特にシンガーを慮ることなく精神荒廃の末に(おそらく病で)この世を去る。そのことでシンガーも絶望し自らの命を断ち、ミックらはまた暗い現実に投げ出される。それがこの物語の着地点である。

 この作品の構造を純化すればするほど、物語の救いのなさが際立ってしまう。だが私たちが忘れてはいけないのは、ミックらが他者と出会っていなかったとしても、彼女らの苦しみそれ自体はきわめて切実なものだったということだ。そしてその苦しみは、訳者の村上自身が述べているように、現代の社会が抱える多くの困難と同型だ。(たとえばブラントとコープランドの対立は、プアな白人労働者階級とマイノリティの社会運動の間の摩擦そのものである。)私たちはこの物語を、本書の帯にあるように「聾唖の男だけが人々の苦しみを優しく受け止めてくれた」などと昇華すべきではないし、かといってただ乱立する自分語りの集積とみなすべきでもない。本作に登場する人物はみな、それぞれ固有の孤独を抱えている。そのそれぞれの孤独を、シンガーという一点に集約させることなく、ひとつひとつ取り出してみること。それらに共感するにせよそうでないにせよ、まずはそこからはじめなくてはならない。

 

追記1

村上春樹が訳した聾唖の男の物語ということで、真っ先にレイモンド・カーヴァーの短編『大聖堂』のようなものだと思っていたらまったく違って驚いた。本作と違って『大聖堂』には暖かな手触りがある。マイノリティをめぐる問題において、十把一絡げに「サポートを必要とするかわいそうな弱者」として位置づけるのでもなく、かといって「ハンディキャップもひとつの個性なのだから障がいなんて存在しない」という極端な考えにも走らせない、第三の道がそこには示されている。

 

追記2

ビルが小児性愛に苦しんでいるというのは、村上春樹のあとがきを読んだのちに本文を読み返してはじめて意識できた。一読した限りの読者に、これはどれほど気づかれるものなのだろう。

*1:もちろん『白痴』のムイシキン公爵は、単に否定神学的な存在で終わらない。彼は周りの声をシンガーのように完璧に受け流せないからこそ、結果的に関わる人をよりラディカルな破滅へと導く。