これまでそこそこたくさんのフィクションに触れてきたけれど、ある作品に対して本当に何も語りたくないと感じたのははじめてだった。
物語があまりに完璧だと「何も付け加えることはないけれど、この物語を語り継いでいかなくちゃいけない」とかすぐ思うし、
物語がバッドエンドだと「批評を紡いでいくことだけが登場人物を救うことなんだ」とかすぐ思うし、
物語がまったくダメだと「作品の価値は人の好みとは違うところにあるのだから、良くない作品に対してはちゃんとダメだと言わなくちゃいけない」とかすぐ思う。
でもこの作品については本当に何も語れない。
この物語にあとワンカットでも、一分でも、一言でも何かが付け加わったなら、その途端に宮沢と有馬の関係は終わりへと進んでしまうし、そもそも作品が根本的に壊れてしまう。
そのことを二人はちゃんとわかっているし、庵野もわかっている。
だから第二十四話のAパートはああいう作りになっているし、最終話で「つづく」のも椿と十波だ。
「たとえ痛みを受け入れてでも現実を直視しろ」なんてメッセージいまやありふれてしまったし、そんなメッセージも結局、「この作品にはそういう痛烈な皮肉が込められているんだよ」と得意げにまくし立てるコミュニティを作るだけだった。
そんなおしゃべりがどれほどなされようと、キャラクターは傷つけられないし、作品は壊れないから。
『彼氏彼女の事情』はもっとずっと遠いところにある。
彼氏彼女が抱く自分たちの終わりの予感は、(こうした)おしゃべりによって、もう予感ではなくなってしまう*1。
*1:「絶対好きなんで早く見てください」とせかし続けてくれた藤井くん、本当にありがとう