最近読んだ小説や観た映画、プレイしたゲームの感想について書きます。
- 小説
昨年はSF恋愛小説みたいなのばかり読んでいた。その最たるものがスタニワフス・レムの『ソラリス』で、あとは秋山瑞人の『イリヤ』とか桜坂洋の『ALL YOU NEED IS KILL』とか、そのあたりの名作ラノベも読み返した。あとはちょこちょこディックとか、村上春樹訳の短編とか読んでいたように思う。フィッツジェラルドみたいな。
今年はもう恋愛もSFもしばらくいいかなという気持ちで、長編大作に挑みたくなって、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読んだ。とにかく文章から滲み出る熱気と湿度がえぐい。これがラテンアメリカ文学かーという感じ。
基本的に本書は、ブエンディア家という一族と、その一族によって興された村「マコンド」の繁栄そして凋落を描く物語。重要なのが一族の子の名前で、「アウレリャノ」と「アルカディオ」という二つの名が何度も何度も繰り返し執拗に付けられる。つまりアウレリャノもアルカディオもたくさんいる。
読者は当然だんだん誰が誰かわからなくなっていくのだが、そうした目眩の感覚と文章の熱気があいまって、マコンドという村は「何が起こってもおかしくない」という様相を帯びていく。蜃気楼の文学ここに極まれりという感じで、内容面でも形式面でもマジックリアリズムが体現されている。
ちょっとテクニカルな話をすれば、本書に現れる「アウレリャノ」や「アルカディオ」という名は、「固有名のフリをした種名辞」のようになっていくのがおもしろい。たとえば歌舞伎界の「中村勘九郎」とか落語界の「三遊亭円楽」なんか(いわゆる「名跡」)は、ひとつの個体をピックアップしないので固有名とは言えず、むしろ「固有名のフリをした種名辞」みたいなものだ*1。『百年の孤独』における「アルカディオ」なんかも、だんだん「アルカディオ種」みたいに感じられてくる。
しかしじつはそれは間違いで、本当は「アウレリャノ」も「アルカディオ」もきちんと固有名なのである。『百年の孤独』のラストシーンの村の消滅は、「アウレリャノ種」あるいは「アルカディオ種」の構成要素ないし部分であるかのような人間が、ひとりの「個」として「アウレリャノ」を引き受けてしまった(意識してしまった)ことの悲劇なのだと僕は考えている。
そんな感じで『百年の孤独』を読んで、いまはトマス・ピンチョンの『V』を読んでいる。下巻の途中。
- 映画
映画は昨年に比べてまったく観れていない。ミニシアター系で最後に行ったのは、濱口竜介の『PASSION』と『偶然と想像』かな。それも今年のわりとはじめ。
友人の藤井くんが「逃避行もののイデア」とおすすめしてくれたバーバラ・ローデンの『ワンダ』は来週行こうと思う。
バーバラ・ローデン監督・脚本・主演『WANDA/ワンダ』(1970/日本では今年劇場初公開)観た。ローデンの処女作にして遺作。
— 藤井 (@kyawasemi) 2022年8月5日
とんでもない大傑作だった。逃避行ものやロードムービーが好きでこれ観てへんやつはもう今後一生フェイク。 pic.twitter.com/Uipp75tMOw
あと、ピンドラ前後編なんかはさすがに行っているけれど、これは僕はダメだと思った。
TV版のピンドラが伝えていたことは、かりに私たちが「何者にもなれない」のだとしても、そしてある種のぬるま湯の安寧(「見てみぬふり」に支えられた擬似家族)を失うことになったとしても、目の前の人(冠葉にとっての陽毬、晶馬にとっての苹果)を選択し、責任を負い、愛することの重要性だったはずだ。
それが映画版では「僕たちはお兄ちゃんだ!」だし「きっと何者かになれる」なんだから、少なくとも僕がTV版で受け取ったメッセージは反転させられてしまっている。ラストシーンで子どもたちが次々に口にする「愛してる」も、あれは完全に普遍的な愛(慈愛的な愛)を寿いでいるのであって、誰かを選択し誰かを傷つける愛の肯定になってない。まあ大人が子どもたちに代弁させる愛っていうのは、「聖歌隊」とか考えてもそもそもそういうものなんだけど。でもそこに大人が参加しちゃったら単に成長の忌避だしね。
まあつまりは、「俺たちぜったい何者かになれるよ」って言い合う共同体に捧げられる愛もいまの時代にはフィットしているのかもしれないけれど、僕はそういうのはいいかなと思った。
- ゲーム
昨年やった冬茜トムの『もののあはれは彩の頃』もルクルの『冥契のルペルカリア』も個人的には良くないと思った作品で(冬茜は『あめぐれ』以降が神)、今年のはじめはノベルゲームのモチベーションが下がっていた。2月は麻枝准の『ヘブバン』が出たので、そればっかやってたかな。
上の二作は「メタゲーの悪さ」がはっきりと出てしまった作品なので、「ベタな作品がやりたい」と思って先日『Flyable Heart』とそのスピンオフの『君の名残は静かに揺れて』をやった。
結論から言えば『FH』も『きみなご』もとてもよかった。『FH』ではあるキャラのEDがドビュッシーの「夢」になっているのだけど、これが全然ペダンティックでも耽美志向でもなくて(要は『リリィ・シュシュ』のアラベスク第一番みたいな使われ方じゃなくて)ごく自然にストーリーの流れの中でキャラが弾いている。これはマジでずるかった。オタクはみんなドビュッシーが好き。
『きみなご』も本当に大事な作品になった。どこが好きかと言われるとじつはあまり挙げられないのだけれど、失礼を承知で言えば、「自分が本気でノベルゲームを作ったらこんな感じになるだろうな」という気がすごくした。とにかく家族の話を書きたくて、本当はSFやミステリより純文学が好きだからそんな雰囲気にしたくて、とか思ってがーっと書いたらこんな感じになるんじゃないかな、と。
あとはもうキャラクターがどんずば!茉百合さん!!!
そのあと『さくレット』をやっていまに至ります。『さくレット』については前回前々回の記事で散々書いたのでとくになし。冬茜トムは神。
次は07th有識者のmeta2さんをして「これをやれば竜騎士はわかる、これをやらないと竜騎士はわからない」と言わしめた『トライアンソロジー』をやります。
そんな感じで。あ、Twitter見つけてくださった方々、ありがとうございます。