いるかホテル

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『ジュエリー・ハーツ・アカデミア』について

以下、『ジュエリー・ハーツ・アカデミア』(きゃべつそふと)のネタバレを含みます。

 

 とても好きなライター冬茜トムの新作。なのだけど、僕はファンタジーやバトルやチームの友情ものがどうしても苦手で、発売直後に買ってから積んでしまっていた。でもやってみると、これは差別や共生の問題を考える上でとても教育的な作品に思えて、そこが驚きでありかつ良い点だった。

 本作の一番重要な場面は、アリアンナやカーラらがヴァンパイアであり、人間であるソーマとはまったく異なる種族であることが判明するシーンだろう。ここで特筆すべきは、ソーマは彼女らがヴァンパイアだと知っていたけれど、ゲームの構造上プレイヤーはそれを知り得ないように作られていて、ソーマとプレイヤーの間には認識上のギャップがあった点。これまでプレイヤーのそばにいてくれたアリアンナたちが、あの場面でまったく未知の異様な存在へと一変する。その感覚は、「自分のすぐそばにいる人は、しかしやはり他人であり、私と根本的に異なることがいつどこで判明するかもわからない」という、考えてみると非常に恐ろしく、しかしじつはとても普遍的な事実を教えてくれる。

 もし仮にプレイヤーとソーマの間に認識上のギャップがなく、「プレイヤーとソーマが共に差別の問題を考えてゆく」というストレートな物語だったなら、ジュエハはまったく異なる作品になっていたはずだ。そのときプレイヤーは、アリアンナやマークスたちをゲームスタート時点から「ヴァンパイア」というカテゴリーに入れて、「ヴァンパイアは人間とは違うけれど、だからといって差別してはいけない」という教科書的な命題の上で、彼女たちをいわば「マイノリティ」というカテゴリー内で扱っていただろう。(ゲームのシナリオ上ヴァンパイアはマイノリティではないが、ゲームをプレイする私たち人間にとって彼女らはマイノリティだ。)しかし、「彼女/彼らはマイノリティだから差別してはいけない」という考えは、自分の生活圏を脅かさない安全な存在として「かわいそうなマイノリティ」を措定し、それに対して一方的に恩寵を授けるというパターナリズムに陥る恐れが十分にある。本当に考えなくてはいけないのは、自分が属する生活圏そのものを脅かす存在がいること、そしてそういった存在とも何らかの仕方で共生してゆかねばならないということだ。

 アリアンナやカーラたちが「食事」をするあのスチルが映し出された途端、彼女たちが一瞬で遠くに行ってしまった、ともすれば「気持ちの悪い」存在になってしまったとプレイヤーが感じたとすれば、それは(こう言って良ければ)非常に正しい反応だと僕は思う。そこをスタート地点として、私たちはもういちど、いったんは気持ち悪いと感じてしまったアリアンナたちと出会い直す。それは苦しくタフな作業だが、しかしそれこそが、あらかじめ措定されたカテゴリーに属する人々に対して一方的な温情をかけるのではなく、本当の意味で他人の異質性に気づくということだ。ここには、他人との共生に関する重要な教訓が含まれていると僕は思う。

 ソーマは、アリアンナを他の誰でもないアリアンナとして、すなわちヴァンパイアという属性を超えたひとりの個体として——ソーマ自身の言葉を借りれば「アリアンナ・ハートベルっていう魂」として——認識することで、彼女に対する憎しみを乗り越える。このこと自体は、最終的な帰結として何も問題はない。

 だが、誰もが誰もをひとりひとりの個人として(「魂」として)扱うことはできない。私たちが一生で知り合うことのできる人間には限りがあるし、ましてそのなかで友人や恋人となりうる人々はごくわずかだ。私たちは、多かれ少なかれ、人々を何らかのカテゴリーに属する匿名的な群れとして処理しなければ生きていけない。ノアが凶弾に倒れる前に主張したある種の「隔離政策」には、そういった諦念——というか現実に対する正しい理解と、その理解の上に築かれる新たな秩序への希望が込められている。と、僕は読んだ。

 

追記

僕は今回のキャラクターのなかでは、ベルカさんがいちばん好きだ。というのは、彼女とのHシーンだけ、ソーマが血を吸われる描写があるから。もちろん「魂への共鳴」みたいなのが美しく理性的なのは間違いない。これに対して「ベルカさんになら血を吸われていい」というのはもっとめちゃくちゃ動物的な、というか普通に超えろい話で、それでも相手の人種や国籍が関係なくなるというのはそういう次元で成されることもある、というかむしろそちらの方が根源的なんじゃないか。みたいな。少なくともあのソーマが「血を吸われてもいい」という次元に至るのは、相当な欲望と愛だと思う。