Twitterでかなり内容のあることをつぶやいてしまった。せっかくフォロワーの方が話しかけてくれたのに、「隙あらば」みたいになってしまって申し訳ない。。たださすがに、呟きの内容に対してもうちょっと補足しておきたいと思う。「内容のあること」を呟くのは本当に本当に大変だ。
私たちは、完全に出来が悪くまったく褒めるところが何もない作品を好きになる自由があるし、逆に、作品としての価値が非常に高く万人がみるべき作品を好きにならない自由がある。自由っていうか、「好き」っていうのはそれぐらいヤバいものなんです。恋愛だってそうであるように
— 多賀宮 (@iruca_hotel) 2022年9月15日
僕がブログやなんやで何かの作品を評価したりしなかったりするとき、僕はあなたの好きや嫌いを否定するつもりはまったくないし、そもそもその領域に直接コミットすることは原理的にできない。だからその点では本当に、気分を害さないでもらえたら嬉しいです
— 多賀宮 (@iruca_hotel) 2022年9月15日
上のツイを見るかぎり、対象(人であれ作品であれ)の価値と、それに対する個人の好き嫌いはまったく関係がない、という印象を受ける。もちろんそんなことはなくて、対象の価値はそれに向けられる好意と深くかかわっている。もしそうじゃないとしたら、たとえば、「きみの恋人見た目もよくないし金もないし頭も悪いよね。あ、これは当人の価値評価だからきみの好きを否定してないよ」とかいう方便が通ることになる。こんなこと言われたら普通にキレるだろう。対象の価値は、好意の理由をちゃんと形成する。だから私たちは、ソムリエがおすすめするワインを飲みたいと思うし、もっとシリアスな例だと、虐待を受ける子どもに対して親の残虐さをなんとか伝えようとする。
ただ僕が言いたかったのは、個人の好き嫌いと対象の価値は原理的に区別され、批評はその後者にかかわる言説だ、ということである。このことは、批評が間接的に誰かの好き嫌いを変更しうることと両立する。かつて批評家の東浩紀は、「俺はこの作品が心底嫌いだけど、それでもこれを後世に残していかなくちゃいけないと言えるのが批評だ」と述べ、また他方で、「批評は誰かを怒らせるものじゃないといけない」と述べていた(たぶんどこかで)。これはたしかに両立する。なぜなら批評は、自分や他人の好みとは切り離して行われるものでありながら、しかしそれでいて、誰かの「好き」の理由を根本的に毀損してしまいかねないものだからだ。
僕はとにかく、いわゆる「好きなもの擁護」だけはしたくない。翻っていえば、僕が何かを真剣に擁護あるいは批判するとき、それは「これは個人の純粋な好みの表明で、だからこの領域を犯さないでください」というものではけっしてない*1。そのとき僕はとても普遍的な話をしていて、何らかの真理を捉えたと思っていて、だから誰かに全然つっこんでもらいたいし、議論したいと思っている。
批評は(というか論文みたいなものはすべて)「チョコレートケーキよりチーズケーキの方が好き」みたいなものではない。でもだからこそ、チーズケーキに対するあなたの思いも、批評そのものの価値も、どちらも固有の領土を持っていられるんだと思う。
*1:〇〇萌え!とか、二次創作同人誌に対する感想とか、そういうのはマジのガチで「純粋な好みの表明」です。