『うみねこのなく頃に』について
以下、『うみねこのなく頃に』(07th Expansion)のネタバレを含みます。
あまりにも語るべきポイントが多すぎて一周回って「愛がなければ視えない」としか言えなくなる。ただ僕は、EP8までやって漫画版の「Confession of the golden witch」を読んだ後は、ずっと「紗音の連続性」みたいなことを考えていた。紗音の自我はどこまで連続しているのか。
1980年に戦人を恋をした紗音は、いつまでも帰ってこない彼への想いに押し潰されそうになり、83年に恋の芽を「ヤス」に押し付ける。あんまり精神分析的に解釈するのもアレだけど、これはいわゆる「抑圧」以外の何物でもないと僕は読んだ。そこで起こっているのは、一個人の性格の変化といった生易しいものではなく、人格の根本的な切断だ。だとすれば、戦人に恋をした紗音と83年以降の紗音は、アイデンティティそのものが切り替わっている。83年に生まれた嘉音がそれまでの紗音と同一視できないのと同様、83年の抑圧以降の紗音は、83年より前の紗音と同一視できない。ここではいわば、まっさらの紗音——紗音*と呼ぼう——が生まれている。
こう考えると、86年の惨劇は明確に抑圧の回帰と読める。他方、漫画版のように、紗音と紗音*を連続的に見ても、まあ(たとえば家具的身体の苦しみとかから)惨劇は説明できる。でもそれは何というか、ちょっとヌルいと僕は思う。彼女はもっと根本的かつ病的に分裂していて、その分裂が惨劇を引き起こす。
別の角度から言えば、紗音は「はじめは戦人が好きだったけど、次第に戦人を諦めて譲治を好きになり、EP8の最後ではまたあらためて戦人に戻ってきた」みたいな人ではないのだろう(漫画版ではそのようにも読めてしまうが)。少なくとも、はじめに戦人を愛した紗音、譲治を愛した紗音*、そして朱志香を愛した嘉音は、それぞれ単一の身体に宿る別人格みたいなものだ。だからこそ、その各々の愛は、すべてある意味では初恋である。あの「恋の試練」は、「好きな人が三人いるけど誰を選ぶか」みたいな話ではなく、人格同士の身体の奪い合い、というかまさに殺し合いに他ならない。
ところで、漫画版で紗音がベアトリーチェに「なる」、すなわち「分裂」ではなく「闇堕ち」するように描出されてしまうのは、これは作家自身の解釈や力量に由来するものではなく、漫画というメディア上いくぶん仕方のないことなのだろう。何というか、漫画は「見えすぎる」のだ。その点ノベルゲームは、視点キャラクターが誰なのか、どのキャラクターがどのキャラクターと会話しているのか、地の文なのか会話文なのか、そして『うみねこ』に限って言えば竜騎士の言なのか八城十八の言なのか、そういった点をある程度撹乱できる。だから、「ベアトリーチェの服を着た紗代」みたいな人物を直接描く必要はない*1。そのあたり、読み手の多様な解釈を誘発する。
以上が僕の見立てなのだけど、こう考えるとEP8の最後の最後、戦人とベアトが二人で六軒島を出るシーンはやや理解が難しい。僕は、80年に恋をしたあの最初の紗音こそ戦人と結ばれてほしいと思っていた。しかし、最初の紗音とベアトの間で根本的な人格の切断が起こっているのだとすれば、島を出ようとしたベアトは、「戦人の好みに合わせて紗音が作り出した自分とは異なる別人格」であって、戦人に初恋をした紗音自身ではない。もちろん、長い時間をかけてうみねこを読んできたプレイヤーからすれば、私たちが親しんでいるあの「残虐キュートなベアト」こそ戦人と結ばれてほしいという気持ちもある*2。けれど、その残虐キュートなベアトはあまりに虚構的で、戦人にとって都合の良い存在で、それゆえ戦人がそのベアトを愛することは、彼の「罪を自覚する」ことにならないのではないか。
そんなふうに、EP8の終了直後は考えていた。のだけど、今は考えをいくぶん変えている。多かれ少なかれ私たちは、自分が好きな人に合わせて自分を変えてゆく。というか、作っていく。そのとき、そうやって作られた自分が愛されること(ベアトリーチェが愛されること)と、「本当の私」が愛されること(83年抑圧以前の紗音が愛されること)の間で、後者の方が良いことなのだと、そんなこと本当に言えるのだろうか。そもそも「本当の私」なんてものの不確かさや脆さこそ、『うみねこ』が暴き立てているものじゃないのか。みたいな、はい。
追記
漫画版EP8六巻の追加ストーリー後、一なる真実を知った縁寿にベアトがかけた「妾とまるで同じではないか」という台詞は、うみねこのなかでもトップクラスに重要な文章だと思う。縁寿はベアトだったかもしれないし、ベアトは縁寿だったかもしれない。被害者/加害者、ミステリー/ファンタジー、人間(誰かを愛しうる)/家具(誰をも愛せない)、そしてそのすべてを象徴する手品/魔法。その二項対立の一方に固執しようとする欲望は、容易に他方へと転回する。ベアトのこの一言には、この運動の可能性と悲哀が凝縮されている。
『ジュエリー・ハーツ・アカデミア』について
以下、『ジュエリー・ハーツ・アカデミア』(きゃべつそふと)のネタバレを含みます。
とても好きなライター冬茜トムの新作。なのだけど、僕はファンタジーやバトルやチームの友情ものがどうしても苦手で、発売直後に買ってから積んでしまっていた。でもやってみると、これは差別や共生の問題を考える上でとても教育的な作品に思えて、そこが驚きでありかつ良い点だった。
本作の一番重要な場面は、アリアンナやカーラらがヴァンパイアであり、人間であるソーマとはまったく異なる種族であることが判明するシーンだろう。ここで特筆すべきは、ソーマは彼女らがヴァンパイアだと知っていたけれど、ゲームの構造上プレイヤーはそれを知り得ないように作られていて、ソーマとプレイヤーの間には認識上のギャップがあった点。これまでプレイヤーのそばにいてくれたアリアンナたちが、あの場面でまったく未知の異様な存在へと一変する。その感覚は、「自分のすぐそばにいる人は、しかしやはり他人であり、私と根本的に異なることがいつどこで判明するかもわからない」という、考えてみると非常に恐ろしく、しかしじつはとても普遍的な事実を教えてくれる。
もし仮にプレイヤーとソーマの間に認識上のギャップがなく、「プレイヤーとソーマが共に差別の問題を考えてゆく」というストレートな物語だったなら、ジュエハはまったく異なる作品になっていたはずだ。そのときプレイヤーは、アリアンナやマークスたちをゲームスタート時点から「ヴァンパイア」というカテゴリーに入れて、「ヴァンパイアは人間とは違うけれど、だからといって差別してはいけない」という教科書的な命題の上で、彼女たちをいわば「マイノリティ」というカテゴリー内で扱っていただろう。(ゲームのシナリオ上ヴァンパイアはマイノリティではないが、ゲームをプレイする私たち人間にとって彼女らはマイノリティだ。)しかし、「彼女/彼らはマイノリティだから差別してはいけない」という考えは、自分の生活圏を脅かさない安全な存在として「かわいそうなマイノリティ」を措定し、それに対して一方的に恩寵を授けるというパターナリズムに陥る恐れが十分にある。本当に考えなくてはいけないのは、自分が属する生活圏そのものを脅かす存在がいること、そしてそういった存在とも何らかの仕方で共生してゆかねばならないということだ。
アリアンナやカーラたちが「食事」をするあのスチルが映し出された途端、彼女たちが一瞬で遠くに行ってしまった、ともすれば「気持ちの悪い」存在になってしまったとプレイヤーが感じたとすれば、それは(こう言って良ければ)非常に正しい反応だと僕は思う。そこをスタート地点として、私たちはもういちど、いったんは気持ち悪いと感じてしまったアリアンナたちと出会い直す。それは苦しくタフな作業だが、しかしそれこそが、あらかじめ措定されたカテゴリーに属する人々に対して一方的な温情をかけるのではなく、本当の意味で他人の異質性に気づくということだ。ここには、他人との共生に関する重要な教訓が含まれていると僕は思う。
ソーマは、アリアンナを他の誰でもないアリアンナとして、すなわちヴァンパイアという属性を超えたひとりの個体として——ソーマ自身の言葉を借りれば「アリアンナ・ハートベルっていう魂」として——認識することで、彼女に対する憎しみを乗り越える。このこと自体は、最終的な帰結として何も問題はない。
だが、誰もが誰もをひとりひとりの個人として(「魂」として)扱うことはできない。私たちが一生で知り合うことのできる人間には限りがあるし、ましてそのなかで友人や恋人となりうる人々はごくわずかだ。私たちは、多かれ少なかれ、人々を何らかのカテゴリーに属する匿名的な群れとして処理しなければ生きていけない。ノアが凶弾に倒れる前に主張したある種の「隔離政策」には、そういった諦念——というか現実に対する正しい理解と、その理解の上に築かれる新たな秩序への希望が込められている。と、僕は読んだ。
追記
僕は今回のキャラクターのなかでは、ベルカさんがいちばん好きだ。というのは、彼女とのHシーンだけ、ソーマが血を吸われる描写があるから。もちろん「魂への共鳴」みたいなのが美しく理性的なのは間違いない。これに対して「ベルカさんになら血を吸われていい」というのはもっとめちゃくちゃ動物的な、というか普通に超えろい話で、それでも相手の人種や国籍が関係なくなるというのはそういう次元で成されることもある、というかむしろそちらの方が根源的なんじゃないか。みたいな。少なくともあのソーマが「血を吸われてもいい」という次元に至るのは、相当な欲望と愛だと思う。
冬茜トム合同誌『緋色と雪色の彩典』感想
今年の夏コミで頒布された冬茜トム合同誌『緋色と雪色の彩典』(半結晶性みぞれ)の感想です!著者名敬称略で、お願いいたします。

- 睦月:外堀埋めもお任せあれ(さいりん)
- 「空色の和服に淡い黄色の帯を締め、薄く化粧をした遠子は美しかった」のところでめちゃくちゃかわいい遠子が浮かんだ。遠子は蓮ちゃんとは違って結婚式の描写とかなかったから(よね…?)、そこを攻めてくれて嬉しい。遠子アフターは一番ハッピーな気持ちで読めますね。
- 如月:着重ねる思い出(同)
- やっぱサクヤは2月のイメージよね!?「シュウ先輩、じゃーん」は脳内CG余裕でした。サクヤいちゃらぶなんていくらあってもいいですからね。。
- 弥生:ゴールは花束と共に(同)
- メリッサさんが遠子の口真似するところはほんと絶対自然にやりそうで、そこが一番萌えた。ラベンダーの花言葉はちゃんと調べました。
- 卯月:前線なんて待てないから(同)
- 『外』に出たあとのアフターストーリーは何だかコトハが一番自然に受け入れられる。リンカにグッジョブしながらも対抗意識燃やしてるシュウくんグッド!
- 皐月:早いことはいいこと?(同)
- 暁は今後、どんどん人間らしくなってゆく琥珀と共に歩んでゆくわけだよね。多分その過程は嬉しい気持ちと寂しい気持ちが入り混じったものになるはず。このSSは彼女が人間らしくなってゆく前の一コマといった感じで、こういった日常を暁は何度も思い出してゆくんだろうなあと思った。
- 水無月:清涼と清流(同)
- 文月:未来を綴る(同)
- 蓮ちゃんルートは原作では最後まで手袋つけてるし義手だと明かせない形になっていて、だからこそこういうアフターは沁みますね。手を重ね合わせて体温を伝え合える関係になるために、少なくとも司にはとても大きな決断がいったはずで。
- 葉月:川面の送りびと(同)
- 僕は彩頃ではクレアさんが一番好きなので、クレアさんSSでちょっとシリアスなモチーフが入ってくれたのは嬉しかった。最後の方の灯籠が流れてゆくところの描写、ほんとに情景が目に浮かびました。さいりんさんの和風月名シリーズではこれと師走がとくに好きです。
- 長月:かけると満ちる(同)
- 数字という概念を知った直後に、数字を使わず月を表現するやり方を聞いても、そりゃあ「数字の方がわかりやすいのに」ってなるよね。。自分がキリエルートちょこちょこ忘れてるのでやり直したい気持ちになりました。
- 神無月:差し伸べられた奇跡の日常(同)
- 水無月もそうだけど、暁は絶対和風月名の由来周りに伝えたがるよね笑 京ちゃんのテニスウェア刺さる人がん刺さりなんでしょう!
- 霜月:永遠に咲かせよ歌の花(同)
- 「アレイア祭のテーマソングをシュウが作曲してユネが歌う」その設定強い!最初は躊躇ってたユネが、シュウ作曲と判明したら乗り気になるのもほんとわかる。原作ユネルートはやっぱりユネがひとりで頑張りすぎなところあるから、アフターはこうしてシュウが力強く引っ張ってゆく(少なくともそう決意する)物語が良きですね。
- 師走:覚める夢と醒めぬ夢(同)
- なんというか、所長が司を未来に帰さなかったイフっていうのもひとつの可能性として本当にあると思う。二次創作は原作のアフターとか細部の補完だけじゃなくて、そういうイフの可能性を書くこともできるから、やっぱりそういうのも読みたくなる(今回は夢だったけど)。特にクリスマスなんて、所長と司が過ごせなかった季節だしね。。いずれにせよ、「一緒にいる未来」も「つくってくれた未来」も、所長の存在とひとつづきの未来。
- これまでと、これからと(なっく)
- 彩頃の幼馴染グループの昔の話をもっと読みたいという需要はきっとあるはずなので、そういう人には刺さるやつ!はじめてみさきと京ちゃんが仲良くなって、そこからの馴れ初めとか。みさきは原作後半の精神力がすごすぎるけど、そりゃあいつか弱気になることもあるはずで、そういうときちゃんと暁がいてくれるんだな、と安心。
- 夢から目覚めて(あくあ)
- サクヤ一人称はほんとに破壊力がやばい。。「はいーシュウ先輩のサクヤです」で死んだし、「シュウさん」呼びに切り替わった直後の地の文(ですますじゃなくなるところ)が本当に好き。やっぱりサクヤにはそういうモードの切り替わりがね、あるはずだよね…。ユネが訪ねてきてサクヤとシュウが居留守使うところは本当にそういうことありそうだし、こっちまでどきどきしました。
- その手で手繰り寄せて(同)
- 原作蓮ちゃんルートの最後は意味深なセリフがあるし、蓮ちゃんは司が最後まで何かを隠し続けていることを知っている。でもそれを問い詰めたりはしていない。だからその点がいつか明かされる物語は、多くの人が夢想するんじゃないかと思う。このあくあさんのSSは、かなり「ああほんとこういう感じなんだろうな」と思って読みました。とくに彼女がはじめ少し怖がっている感じとか、途中で司に対して大きな声を出すところとか、そういう場面に二人らしさを感じた。
- ちっちゃな呪い師が生まれたワケ(七條ていく)
- なんか最後の縁さん、鳳凰ヶ原ヒミコみたいになってますけど!!笑 全体的に水道水の水割りとか笑いながら読みました。縁SS読むと、大誠と縁が徐々に仲深めてゆく物語もつい考えてしまう。第二ボタンですって。。
- グランツアーを終えて(同)
- ギドウ先輩はゲームの分岐上の可能世界では実際に街を燃やしている。トゥルーエンドの世界ではそれは防がれる。それでもそうした可能性が(トゥルーエンドの世界でも)夢として象徴的に彼に襲いかかるというのは、完全に俺の好きなやつです。そしてこのSSは、さくレットとのクロスオーバーと考えていいんですよね…?だとしたら、冬茜さん自身は自分の作品をクロスさせたりしないだろうし、こういうのも二次創作の強みで楽しい。
- 帰郷・旅は道連れ、世は情け(同)
- どうか、胸の温もりが欲しくて(Planador)
- パスタは閂のように(同)
- ユネエンド後のお話。ユネには「私はシュウのもので、シュウは私のものだ」って言ってほしいし、たとえそばにサクヤや他の誰がいたって、今回描かれたみたいに強気でシュウの側に立っていてほしい。いつかシュウのすべてはユネのものになるし、サクヤはそのことを重々わかっている。そして彼女は、きっと自分がいつか「一歩を踏み出す」こともわかっている(それはシュウへの想いを断ち切るということだと思う)。でも、まだできない。まだサクヤは「あの小さい地下室に囚われていて抜け出せない」。そういう瞬間を切り取った話がマジで好きです。
- 東風吹かば(同)
- 僕はさくレットエンド後は司のことばっかり考えるので、所長側のアフターを読めるのはなんか新鮮。匂いフェチ所長からの最後の梅の花の短歌で文面から香りが立ち上がってくる感じが良き。個人的に「何かが失われたあと、空間内に確固として存在しないけど残り続けるもの」に関心があって、そういう意味で今回「香り」が一貫したテーマになっているのは嬉しい。
- 狩りの分け前は平等に(同)
- ジュエハまだ未プレイで……
イラストもどれも魅力的で、とにかく冬茜トム愛が溢れた素敵な同人誌でした。冬茜トムばんざい!
2022/08/07_近況
最近読んだ小説や観た映画、プレイしたゲームの感想について書きます。
- 小説
昨年はSF恋愛小説みたいなのばかり読んでいた。その最たるものがスタニワフス・レムの『ソラリス』で、あとは秋山瑞人の『イリヤ』とか桜坂洋の『ALL YOU NEED IS KILL』とか、そのあたりの名作ラノベも読み返した。あとはちょこちょこディックとか、村上春樹訳の短編とか読んでいたように思う。フィッツジェラルドみたいな。
今年はもう恋愛もSFもしばらくいいかなという気持ちで、長編大作に挑みたくなって、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読んだ。とにかく文章から滲み出る熱気と湿度がえぐい。これがラテンアメリカ文学かーという感じ。

基本的に本書は、ブエンディア家という一族と、その一族によって興された村「マコンド」の繁栄そして凋落を描く物語。重要なのが一族の子の名前で、「アウレリャノ」と「アルカディオ」という二つの名が何度も何度も繰り返し執拗に付けられる。つまりアウレリャノもアルカディオもたくさんいる。
読者は当然だんだん誰が誰かわからなくなっていくのだが、そうした目眩の感覚と文章の熱気があいまって、マコンドという村は「何が起こってもおかしくない」という様相を帯びていく。蜃気楼の文学ここに極まれりという感じで、内容面でも形式面でもマジックリアリズムが体現されている。
ちょっとテクニカルな話をすれば、本書に現れる「アウレリャノ」や「アルカディオ」という名は、「固有名のフリをした種名辞」のようになっていくのがおもしろい。たとえば歌舞伎界の「中村勘九郎」とか落語界の「三遊亭円楽」なんか(いわゆる「名跡」)は、ひとつの個体をピックアップしないので固有名とは言えず、むしろ「固有名のフリをした種名辞」みたいなものだ*1。『百年の孤独』における「アルカディオ」なんかも、だんだん「アルカディオ種」みたいに感じられてくる。
しかしじつはそれは間違いで、本当は「アウレリャノ」も「アルカディオ」もきちんと固有名なのである。『百年の孤独』のラストシーンの村の消滅は、「アウレリャノ種」あるいは「アルカディオ種」の構成要素ないし部分であるかのような人間が、ひとりの「個」として「アウレリャノ」を引き受けてしまった(意識してしまった)ことの悲劇なのだと僕は考えている。
そんな感じで『百年の孤独』を読んで、いまはトマス・ピンチョンの『V』を読んでいる。下巻の途中。
- 映画
映画は昨年に比べてまったく観れていない。ミニシアター系で最後に行ったのは、濱口竜介の『PASSION』と『偶然と想像』かな。それも今年のわりとはじめ。
友人の藤井くんが「逃避行もののイデア」とおすすめしてくれたバーバラ・ローデンの『ワンダ』は来週行こうと思う。
バーバラ・ローデン監督・脚本・主演『WANDA/ワンダ』(1970/日本では今年劇場初公開)観た。ローデンの処女作にして遺作。
— 藤井 (@kyawasemi) 2022年8月5日
とんでもない大傑作だった。逃避行ものやロードムービーが好きでこれ観てへんやつはもう今後一生フェイク。 pic.twitter.com/Uipp75tMOw
あと、ピンドラ前後編なんかはさすがに行っているけれど、これは僕はダメだと思った。
TV版のピンドラが伝えていたことは、かりに私たちが「何者にもなれない」のだとしても、そしてある種のぬるま湯の安寧(「見てみぬふり」に支えられた擬似家族)を失うことになったとしても、目の前の人(冠葉にとっての陽毬、晶馬にとっての苹果)を選択し、責任を負い、愛することの重要性だったはずだ。
それが映画版では「僕たちはお兄ちゃんだ!」だし「きっと何者かになれる」なんだから、少なくとも僕がTV版で受け取ったメッセージは反転させられてしまっている。ラストシーンで子どもたちが次々に口にする「愛してる」も、あれは完全に普遍的な愛(慈愛的な愛)を寿いでいるのであって、誰かを選択し誰かを傷つける愛の肯定になってない。まあ大人が子どもたちに代弁させる愛っていうのは、「聖歌隊」とか考えてもそもそもそういうものなんだけど。でもそこに大人が参加しちゃったら単に成長の忌避だしね。
まあつまりは、「俺たちぜったい何者かになれるよ」って言い合う共同体に捧げられる愛もいまの時代にはフィットしているのかもしれないけれど、僕はそういうのはいいかなと思った。
- ゲーム
昨年やった冬茜トムの『もののあはれは彩の頃』もルクルの『冥契のルペルカリア』も個人的には良くないと思った作品で(冬茜は『あめぐれ』以降が神)、今年のはじめはノベルゲームのモチベーションが下がっていた。2月は麻枝准の『ヘブバン』が出たので、そればっかやってたかな。
上の二作は「メタゲーの悪さ」がはっきりと出てしまった作品なので、「ベタな作品がやりたい」と思って先日『Flyable Heart』とそのスピンオフの『君の名残は静かに揺れて』をやった。

結論から言えば『FH』も『きみなご』もとてもよかった。『FH』ではあるキャラのEDがドビュッシーの「夢」になっているのだけど、これが全然ペダンティックでも耽美志向でもなくて(要は『リリィ・シュシュ』のアラベスク第一番みたいな使われ方じゃなくて)ごく自然にストーリーの流れの中でキャラが弾いている。これはマジでずるかった。オタクはみんなドビュッシーが好き。
『きみなご』も本当に大事な作品になった。どこが好きかと言われるとじつはあまり挙げられないのだけれど、失礼を承知で言えば、「自分が本気でノベルゲームを作ったらこんな感じになるだろうな」という気がすごくした。とにかく家族の話を書きたくて、本当はSFやミステリより純文学が好きだからそんな雰囲気にしたくて、とか思ってがーっと書いたらこんな感じになるんじゃないかな、と。
あとはもうキャラクターがどんずば!茉百合さん!!!
そのあと『さくレット』をやっていまに至ります。『さくレット』については前回前々回の記事で散々書いたのでとくになし。冬茜トムは神。
次は07th有識者のmeta2さんをして「これをやれば竜騎士はわかる、これをやらないと竜騎士はわからない」と言わしめた『トライアンソロジー』をやります。
そんな感じで。あ、Twitter見つけてくださった方々、ありがとうございます。
前回の記事のつづき。『さくレット』付記。
前回、「現実に対して別の仕方で意味づけを行う」というフィクションの作用について書いた。そしてその作用は、とりわけ『さくレット』で全面的に発揮されている、とも。
しかし、フィクションがもつそうしたポテンシャルは、いわゆる「陰謀論」を走らせる危険な側面も持っている。
そしてなんのことはない、『さくレット』こそ、きわめて良くできた陰謀論にほかならないと言える。
「本当の日本では原敬が暗殺され、サンフランシスコ平和条約は全面講和として締結され、それがきっかけとなって2020年(元号桜雲)ではWWⅢが起こるはずだったが、司が帰る未来のため尽力する所長(レベッカ)たちによって私たちが生きる令和の時代が訪れた」という文面のヤバさを味わってほしい。
ふつうに考えて私たちは、そんなふうに物語化された現実を生きることができない。陰謀論にコミットすることができない。
しかし上の記事でも書いたように、所長を信じ愛し続けることと、物語化された(陰謀論化された)現実を生きることは、きっと不可分なのだと思う。
だから、私たちが所長を愛し続ける(萌え続ける)ことの不可能性みたいなものは、すでに『さくレット』に織り込まれている。
けれどもこのことは、『さくレット』の欠点でもなんでない。むしろそれは、フィクションが持つ現実への作用と、そして何より、所長という存在が持つ(彼女の生を裏切ってはいけないという錯覚を私たちにもたらす程度には)圧倒的な魅力が、冬茜トムによって引き出された結果なのだと、僕は思う。
ジュエハ買いました、と冬茜トムへの思いを少しつづる
きゃべつそふと新作『ジュエリー・ハーツ・アカデミア』を買った。
自分がプレイする冬茜トム作品は、発売時系列順に『彩頃』『あめぐれ』『さくレット』からの4本目。

冬茜トムは、少なくともいま美少女ゲーム業界にいるライターのなかでは突出した才能をもっているひと。
個人的にはオールタイムで考えても、(思い入れの強すぎる麻枝准を除けば)ナンバーワンで好きなライター。

まず冬茜トムがすごいのは、美少女ゲームの構造に対して自覚的なグランドストーリーを描きつつも、各個別ルートにおいて主人公やヒロインが下す選択のそれ自体としての価値、かけがえのなさを肯定する作品を作っているところ。
基本的に「メタエロゲ的なグランドストーリーが導くカタルシス」と「個別ルートでのキャラクターの生の独立性」は「一方を立てれば他方は立たず」という関係にあって、ふつうは共倒れを避けてどちらかに偏ったシナリオを書くしかない。けれども(少なくとも『あめぐれ』以降の)冬茜トムは、これらをものすごい水準で両立させている。
こうしたバランス感覚は、つくりこまれた設定だけじゃなく、キャラクターのセリフ回しなどにも現れている。そのさじ加減の感覚や作劇の技術は、本当に天才的としか言いようがない。
□
あと個人的には、冬茜トムは、フィクションは「現実逃避」でも「現実を生きるためのエネルギー源」でもなくて、「現実に対して別の仕方で意味づけを行う」ことができる何かなのだとわかっている(稀有な)ライターだと思っている。
プレイ済みの人ならすぐわかってもらえるだろうけど、もちろんそうした意味づけは『さくレット』で顕著だ。【以下さくレットのネタバレ】なにせ私たちが生きる(桜雲ではない)令和の日本は、本当は所長たちがつくりかえた未来なのだから。
でももっと根本的に、もし私たちがフィクションのキャラクターである所長を本気で愛して生きていくことができたなら、その生は、「異なる時代異なる世界で出会った、けれどももう会えない所長との愛を信じて生きていく」という風見司の生とじつはそこまで変わらないのではないかと僕は思った。
少なくとも『さくレット』を終えた直後の自分は、他のキャラクターはもちろん現実の人間に対しても、「ゲームはゲーム」と頭を切り替えて良いのかわからなかった。それは、パンデミックに直面する令和の日本を生きる司が、あの大正の時代を「ただの夢」と切り捨てるのと同様、彼女に対する重大な裏切りに思えたから。
もちろんそうした感覚は、現実に対するひとつの錯覚だ。
けれども冬茜トムのシナリオは、ひとをそんな錯覚にいざなうだけの強度を間違いなく有している。
というわけでジュエハも期待しています。
□
ところで、次のコミケでこんな本が出るみたい。
【C100新刊】緋色と雪色の彩典~冬茜トム作品合同誌~ サンプル https://t.co/4kmXoBaobY
— Planador@C100(日)東2 S-12a (@FMrose175) 2022年7月22日
B5版、本文108P、イラスト9枚、ノベル12万字超でお送りします。予価1000円、8月14日(日)、東2S12a、サークル「半結晶性みぞれ」にてお待ちしております。 #彩頃 #あめぐれ #さくレット
さいこう!!めっちゃほしい!!!冬茜トムばんざい!!!
『彼氏彼女の事情』
これまでそこそこたくさんのフィクションに触れてきたけれど、ある作品に対して本当に何も語りたくないと感じたのははじめてだった。
物語があまりに完璧だと「何も付け加えることはないけれど、この物語を語り継いでいかなくちゃいけない」とかすぐ思うし、
物語がバッドエンドだと「批評を紡いでいくことだけが登場人物を救うことなんだ」とかすぐ思うし、
物語がまったくダメだと「作品の価値は人の好みとは違うところにあるのだから、良くない作品に対してはちゃんとダメだと言わなくちゃいけない」とかすぐ思う。
でもこの作品については本当に何も語れない。
この物語にあとワンカットでも、一分でも、一言でも何かが付け加わったなら、その途端に宮沢と有馬の関係は終わりへと進んでしまうし、そもそも作品が根本的に壊れてしまう。
そのことを二人はちゃんとわかっているし、庵野もわかっている。
だから第二十四話のAパートはああいう作りになっているし、最終話で「つづく」のも椿と十波だ。
「たとえ痛みを受け入れてでも現実を直視しろ」なんてメッセージいまやありふれてしまったし、そんなメッセージも結局、「この作品にはそういう痛烈な皮肉が込められているんだよ」と得意げにまくし立てるコミュニティを作るだけだった。
そんなおしゃべりがどれほどなされようと、キャラクターは傷つけられないし、作品は壊れないから。
『彼氏彼女の事情』はもっとずっと遠いところにある。
彼氏彼女が抱く自分たちの終わりの予感は、(こうした)おしゃべりによって、もう予感ではなくなってしまう*1。
*1:「絶対好きなんで早く見てください」とせかし続けてくれた藤井くん、本当にありがとう