前回、「現実に対して別の仕方で意味づけを行う」というフィクションの作用について書いた。そしてその作用は、とりわけ『さくレット』で全面的に発揮されている、とも。
しかし、フィクションがもつそうしたポテンシャルは、いわゆる「陰謀論」を走らせる危険な側面も持っている。
そしてなんのことはない、『さくレット』こそ、きわめて良くできた陰謀論にほかならないと言える。
「本当の日本では原敬が暗殺され、サンフランシスコ平和条約は全面講和として締結され、それがきっかけとなって2020年(元号桜雲)ではWWⅢが起こるはずだったが、司が帰る未来のため尽力する所長(レベッカ)たちによって私たちが生きる令和の時代が訪れた」という文面のヤバさを味わってほしい。
ふつうに考えて私たちは、そんなふうに物語化された現実を生きることができない。陰謀論にコミットすることができない。
しかし上の記事でも書いたように、所長を信じ愛し続けることと、物語化された(陰謀論化された)現実を生きることは、きっと不可分なのだと思う。
だから、私たちが所長を愛し続ける(萌え続ける)ことの不可能性みたいなものは、すでに『さくレット』に織り込まれている。
けれどもこのことは、『さくレット』の欠点でもなんでない。むしろそれは、フィクションが持つ現実への作用と、そして何より、所長という存在が持つ(彼女の生を裏切ってはいけないという錯覚を私たちにもたらす程度には)圧倒的な魅力が、冬茜トムによって引き出された結果なのだと、僕は思う。