いるかホテル

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『うみねこのなく頃に』について

以下、『うみねこのなく頃に』(07th Expansion)のネタバレを含みます。

 

  あまりにも語るべきポイントが多すぎて一周回って「愛がなければ視えない」としか言えなくなる。ただ僕は、EP8までやって漫画版の「Confession of the golden witch」を読んだ後は、ずっと「紗音の連続性」みたいなことを考えていた。紗音の自我はどこまで連続しているのか。

  1980年に戦人を恋をした紗音は、いつまでも帰ってこない彼への想いに押し潰されそうになり、83年に恋の芽を「ヤス」に押し付ける。あんまり精神分析的に解釈するのもアレだけど、これはいわゆる「抑圧」以外の何物でもないと僕は読んだ。そこで起こっているのは、一個人の性格の変化といった生易しいものではなく、人格の根本的な切断だ。だとすれば、戦人に恋をした紗音と83年以降の紗音は、アイデンティティそのものが切り替わっている。83年に生まれた嘉音がそれまでの紗音と同一視できないのと同様、83年の抑圧以降の紗音は、83年より前の紗音と同一視できない。ここではいわば、まっさらの紗音——紗音*と呼ぼう——が生まれている。

 こう考えると、86年の惨劇は明確に抑圧の回帰と読める。他方、漫画版のように、紗音と紗音*を連続的に見ても、まあ(たとえば家具的身体の苦しみとかから)惨劇は説明できる。でもそれは何というか、ちょっとヌルいと僕は思う。彼女はもっと根本的かつ病的に分裂していて、その分裂が惨劇を引き起こす。

 別の角度から言えば、紗音は「はじめは戦人が好きだったけど、次第に戦人を諦めて譲治を好きになり、EP8の最後ではまたあらためて戦人に戻ってきた」みたいな人ではないのだろう(漫画版ではそのようにも読めてしまうが)。少なくとも、はじめに戦人を愛した紗音、譲治を愛した紗音*、そして朱志香を愛した嘉音は、それぞれ単一の身体に宿る別人格みたいなものだ。だからこそ、その各々の愛は、すべてある意味では初恋である。あの「恋の試練」は、「好きな人が三人いるけど誰を選ぶか」みたいな話ではなく、人格同士の身体の奪い合い、というかまさに殺し合いに他ならない。

 ところで、漫画版で紗音がベアトリーチェに「なる」、すなわち「分裂」ではなく「闇堕ち」するように描出されてしまうのは、これは作家自身の解釈や力量に由来するものではなく、漫画というメディア上いくぶん仕方のないことなのだろう。何というか、漫画は「見えすぎる」のだ。その点ノベルゲームは、視点キャラクターが誰なのか、どのキャラクターがどのキャラクターと会話しているのか、地の文なのか会話文なのか、そして『うみねこ』に限って言えば竜騎士の言なのか八城十八の言なのか、そういった点をある程度撹乱できる。だから、「ベアトリーチェの服を着た紗代」みたいな人物を直接描く必要はない*1。そのあたり、読み手の多様な解釈を誘発する。

 以上が僕の見立てなのだけど、こう考えるとEP8の最後の最後、戦人とベアトが二人で六軒島を出るシーンはやや理解が難しい。僕は、80年に恋をしたあの最初の紗音こそ戦人と結ばれてほしいと思っていた。しかし、最初の紗音とベアトの間で根本的な人格の切断が起こっているのだとすれば、島を出ようとしたベアトは、「戦人の好みに合わせて紗音が作り出した自分とは異なる別人格」であって、戦人に初恋をした紗音自身ではない。もちろん、長い時間をかけてうみねこを読んできたプレイヤーからすれば、私たちが親しんでいるあの「残虐キュートなベアト」こそ戦人と結ばれてほしいという気持ちもある*2。けれど、その残虐キュートなベアトはあまりに虚構的で、戦人にとって都合の良い存在で、それゆえ戦人がそのベアトを愛することは、彼の「罪を自覚する」ことにならないのではないか。

 そんなふうに、EP8の終了直後は考えていた。のだけど、今は考えをいくぶん変えている。多かれ少なかれ私たちは、自分が好きな人に合わせて自分を変えてゆく。というか、作っていく。そのとき、そうやって作られた自分が愛されること(ベアトリーチェが愛されること)と、「本当の私」が愛されること(83年抑圧以前の紗音が愛されること)の間で、後者の方が良いことなのだと、そんなこと本当に言えるのだろうか。そもそも「本当の私」なんてものの不確かさや脆さこそ、『うみねこ』が暴き立てているものじゃないのか。みたいな、はい。

 

追記

漫画版EP8六巻の追加ストーリー後、一なる真実を知った縁寿にベアトがかけた「妾とまるで同じではないか」という台詞は、うみねこのなかでもトップクラスに重要な文章だと思う。縁寿はベアトだったかもしれないし、ベアトは縁寿だったかもしれない。被害者/加害者、ミステリー/ファンタジー、人間(誰かを愛しうる)/家具(誰をも愛せない)、そしてそのすべてを象徴する手品/魔法。その二項対立の一方に固執しようとする欲望は、容易に他方へと転回する。ベアトのこの一言には、この運動の可能性と悲哀が凝縮されている。

 

*1:でもまあサヨトリーチェは激萌えなので、それで全部オッケーです!

*2:うみねこ』クリア後に友人と(meta2さんと…)何十時間もうみねこについて議論していたのだけれど、彼は明確に、EP1から登場し続けている「あの」ベアトこそが戦人と共に島を出た存在なんだ、という立場だった。その気持ちも非常にわかる。たとえ初恋時の紗音から何らかの意味で切り離されていたとしても、「あの」ベアトもまた、何度も何度も戦人を求めたひとりの独立した個人なのだ