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舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』について

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死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(村上春樹ノルウェイの森』) 

人の人生の中に《死》はある。《恋人の死》だって起こりうる。誰にでもだ。でもそれを書くとき、それがいかに悲しく悔しいかなんてことには僕は興味がなくて、僕が言いたいのは、その悲しみと悔しさの向こうに何があるのか、その悲しみと悔しさと同時にどんなものが並んでいるのか、ということなのだ。(舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』)

 

 

 舞城王太郎の代表作を、思うところあって約10年ぶりに読み返した。あらすじを書くような小説でもないので、wikiのリンクだけ貼って感想へ。

 

 小説についての、そして恋愛についての小説のひとつの到達点。一生のうちにそうそう出会えることのない完璧な小説。たとえばある種の人々にとってロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』がバイブル視されているように、本書も愛についてのマイルストーンとしてきっと歴史の中で読み継がれていく。

 本作が傑出している点は、「人を愛することは物語を紡ぐことである」というメッセージのその先まで描いていることだ。それこそバルトが前述書で「一目惚れはつねに過去形で語られる」と述べたように、私たちは人を愛する(愛した)とき、愛する人との過去の出来事をひとつの相のもとで関連させ、意味づける。たとえば出会いの瞬間を「あれは運命だった」と評したり、相手のなんでもない言葉を「私を意識して言ったことだ」と解釈したり、とにかくさまざまな偶然の出来事の連なりを、すべて自分(たち)の愛の原因もしくはその結果として生じたものとして語る。愛はこのように、諸々の出来事を物語化する作用を持つ。

 「愛情と物語は、ひょっとしたら同じものなのかもしれない。」(170)けれども、それで終わりではない。愛による出来事の物語化は、当然のことながら現実世界の制約を受ける。翻って言えば、あらゆる出来事を何の制約もなく好き勝手に意味付けることはできない。私たちは、自らの認識から独立した外界の出来事を材料として物語を組み立てるしかないし、さらには、できあがった物語が現実に(そしてなによりも愛する人に)与える影響をつねに意識せずにはいられない。つまり出来事の物語化は、その材料の調達とのちの影響という二つの側面において、現実の制約を受けている。

 本作は、単に愛と物語創作の類似性を示すだけにとどまらず、創作された物語が被る上述したような現実の制約を強く自覚している。そのことは小説の随所から見てとることができる。たとえば、<柿緒Ⅰ>において治が書いた作中作である『光』は、そのまま<智衣子>の現実と符号してしまう。<佐々木妙子>において夢の世界のヘビは現実の教室を襲うおっさんになり、夢で出会った初恋の佐々木妙子は社民党の土井党首になる。<ニオモ>におけるニオモは、神が見せている幻なのか本物の彼女なのか見分けがつかない。<柿緒Ⅲ>では柿緒の弟が「自分たちのことを書かれた」と感じ治と縁を切る。そもそも<智衣子>のASMAだって東だ。

 そしてとにかくこれらのエピソードから浮かび上がるのは、自らの手を離れた物語が現実でどのようなものに変わってゆくのかについて、私たちは無力であるということだ。出来事がどれほどロマンティックに物語化されようと、それが愛する人に受け入れられるかはわからない。言い換えれば、愛する人が私と同じフィクションを生きてくれる保証はない。そのとき私たちは、誰のことを責めることもできない。というのも、諸々の出来事は私の価値づけから独立に存在し、「客観的な重要度では同じ」(166)だからだ。世界にとっては、「天井の木目を見つめ、ブラインドの色を選び、カワハギの残りを口に運び、飛行機の時刻を調べ、ミリオンバンブーを買い求めるその全ての一瞬一瞬に僕が柿緒を失うことと同じだけの意味と大きさがある」(168)。だから「愛とは祈りで、物語も祈り」(170)なのだ。いつか治は柿緒を裏切るだろうし、そのことを治は自覚している。そのような現実の制約を意識しながらも、諸々の出来事への注意や関心を偏在化し、そのようにして紡がれたフィクションが二人にとっての単一の物語となることへの願い、それが愛と物語を導く祈りである。

 

 とまあ以上はいわば教科書的な感想で、ここで終わって「すごい作品だった」でも良いのだけど、最後に自分が本書で一番ぐらいに好きなところを書く。それは<柿緒Ⅲ>にある「僕は小説を書くために生きているんではなくて、生きていて小説を書いているのだ。」(166)という言葉だ。人生でとても大切な何かxがあるとして、それは容易に「xのために生きている」という目的の連関の中に落とし込まれる。あるいはその逆張りとして「生きるためにxをしている」とうそぶかれたりもする。けれどもここで舞城が教えてくれるのは、自分にとって本当に大切な何かや「生きること」それ自体は、理由づけの空間からすり抜けるということだ。治は、生きていて小説を書き、生きていて柿緒を愛している。それらは生きることに包含されている。そしてここでの包含関係は、けっして理由づけの関係を意味しないのだ。