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冬茜トム『アメイジング・グレイス』について

きゃべつそふとの二作目であり、ループもののノベルゲーム『アメイジング・グレイス』(2018)をプレイした。

 

あらすじ
 主人公シュウは目が覚めると、すべての記憶を失い不思議な「町」にいた。その街並みはまるで中世のヨーロッパのようで、人々は芸術や美を崇拝している。だが何より奇妙なのは、町が「オーロラ」と呼ばれる巨大な水晶の壁にぐるっと囲われていることと、町の人はみなオーロラの外の世界はすでに崩壊したと信じていることだ。シュウはこの独特な町に戸惑いながらも、やがて「聖アレイア学園」の学生となり、ユネやサクヤといった友人たちと日々を楽しく過ごすようになる。だがクリスマスの夜、町は謎の大災害——アポカリプスに見舞われる。誰よりも町を愛するユネは、世界の終焉を嘆き、どうかアドベントまで時間が巻き戻りますようにと願う。

 

以下感想。

 本稿では「なぜサクヤは最後まで外に出なかったのか」という問いを立ててみたい。サクヤ以外のルートでは、シュウと結ばれたヒロインは最後にかならず外に出る。これに対して、サクヤは「いつかオーロラの外につれてってくれますか」といった台詞をシュウにかけるのみで、作品内で実際に町を出ることはない。もっとも、この違いは作品内で大きな意味をもっているわけではないし、ライターである冬茜トムでさえ、意識してこのように描いたわけではないのかもしれない。だがたとえそうであったとしても、サクヤだけが町を出なかったという点には、本作のひとつの本質がはっきりと現れていると私は思う。そこには、この作品全体を貫くある種の「不気味さ」に対して、プレイヤーがどう向き合うべきかという問いかけが内包されている。サクヤが作品内で町を出なかったのはなぜか。本稿の結論は、サクヤだけが、この作品全体を貫く「不気味さ」を無かったことにはできなかったからだ、というものである。

 

 本作品には二つの不気味さがある。第一の不気味さは物語の内容面、作品の舞台にかかわる。本作品の舞台は「外の世界と隔離された、自由はないがイノセントな閉鎖的楽園」である。こうした箱庭的舞台が設定されたアニメや小説は多い。仮に楽園が人工的に作られたものならば、「たとえ痛みを伴っても外の真実を知るべきだ」というメッセージを伴うのがお約束であり(たとえば『トゥルーマン・ショー』や『ラストエンペラー』など)、またそれが人工的な世界でないとしても、「いつまでも留まることは許されない夢幻世界」として導入される(たとえば『灰羽連盟』など)。

 だが本作においては、町はむしろ積極的に守るべきものとして現れる。もっとも、他の類似作品に比べて本作品の町が穏当なわけではない。それどころか、町は非常にグロテスクな価値観によって人為的に作られている。たとえばそのせいで、この町の人々は文字を読み書きすることができない。つまり書き言葉という概念を知らない。だが本作品のキャラクターたちはみな心から町を愛している。しかるにシュウは、町を破壊しようとする敵ギドウから町を守るため奔走することとなる。純粋に美的な価値を求めて町の破壊を目論むギドウと、ギドウの計画を知りながらシュウとの逃避行を夢見るサクヤという二人の思惑の到達地点は、「箱庭的世界の終焉、そして恋人との脱出」という、他の作品では「トゥルーエンド」にさえ置かれる結末だ。だがプレイヤーは、こうした結末を回避することを求められる。つまり、町の不気味さをこれ以上なく味わった上で、それを守ることを強いられる。

 第二の不気味さは、「タイムループは特定のヒロインの犠牲によって成り立つ」という設定から生じるものであり、これは物語の中身そのものというよりも、むしろその構造に関わっている。町の終焉を防ぐためにシュウは何度も12月をやり直すこととなるが、それはじつはユネの命を削っている。だがシュウは最後までそのことに気づかない。より正確に言えば、気づこうとしない。またループで犠牲にされるのはユネだけではない。シュウと同じくループを認知するサクヤもまたそのひとりだ。ループごとに記憶がリセットされるユネとは異なり、サクヤは世界の周回ごとにシュウが別のヒロインと仲を深めるのを目撃し続ける。サクヤは、「町は焼かれたとしても二人で外に脱出する」という彼女自身のトゥルーエンドを目指す中で、シュウに選ばれない苦しみを幾度となく繰り返すことになる。ここで考えたいのは、ユネとサクヤの存在は、本作品内のループの犠牲者というのみならず、ノベルゲームに向かうプレイヤーの欲望そのものの目撃者として読み替えられるということだ。サクヤの存在に取り憑かれたプレイヤーは、もはや「見られることなく見る」全能感を有したプレイヤーではいられない。我々がゲームをパラレルに攻略する、そのような作業こそが見られているという不気味さがプレイヤーに宿ることとなる。

(とりわけユネの「何度も繰り返すなんてズルじゃない」という台詞と、サクヤの「なんであのループで終わりにしてくれなかったんですか」という台詞はメタ的だ。特に後者の台詞は「何で選んでくれなかったんですか」ではないことが重要である。サクヤは多くの鬱ゲーのヒロインのように、単に選ばれなかったことを嘆いているのではない。彼女は、我々がサクヤルートをクリアしてもそれで終わりにしないこと、また別のヒロインをロードすることを知っているのだ*1。)

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 本作品には、こうした不気味さが宿っている。だが、ユネとサクヤ以外のルートの結末では、その不気味さはきれいに漂白されてしまう。キリエとコトハのルートでは、ユネやサクヤの消耗は最後までシュウに自覚されず、それどころか、ユネ自身ループによって自らの命が削られたことを憶えていない。ではユネとサクヤのルートではどうか。こちらでは、たしかにシュウは彼女らをある意味でスポイルしていたことを自覚する。問題はその後の展開である。ユネルートの終盤、ユネとシュウは共にユネの両親に会いに行くことになる。ユネとシュウはあっさりと町を出ていき、また戻ってくる。同様のイベントはキリエとコノハの物語終盤でも描かれる。

 ところで、本作品のメッセージのひとつは、「外に出ることも出ないこともできるという自由が与えられた上で、なおここに残るという生き方の肯定」である。(こうしたメッセージが打ち出されているだけでも、「外に出て真実を知ろう」と叫ぶ凡百の作品と本作の違いがわかる。)このような観点からすれば、「外と内を自由に往復し、自らが望む仕方で生きる」という彼女らの振る舞いは当然肯定されるべきだろう。

 だが、ここで立ち止まってみたい。物心がついた頃から「この場所以外の世界は滅んだ」と信じて育ってきた町(ユネたちにとっての世界そのもの)を、彼女らはそれほど容易に相対化できるものだろうか。仮にできたとしよう。彼女たちは実際そのように生きているのだから、それは受け止めれば良い。真に重要な問題は別にある。すなわち、キャラクターたちではなく私たちは、グロテスクな町のために命を削ったユネの痛々しさを、プレイヤーの身勝手なふるまいを目撃し続けたサクヤの苦しみを、そしてそのようなすべての不気味さの象徴としての町を、そんなに簡単に相対化してしまってよいのだろうか。

 サクヤだけは、最後まで町から出ない。もちろん、サクヤはいつかオーロラを超えて外に出ることを願う。それは本作のメッセージから当然導かれることだ。だがアンリ・ルソーの『夢』に最後まで惹かれ続ける彼女は、町が簡単には漂白できない「ジャングルの夢」であることを知っている。サクヤは、ニューヨークにある本物の『夢』を見ることができたなら、はじめて現在が(そしてまたこの場所が)現実であることを認められると言う。だからはじめから彼女は、ユネたちとはまったく違っていたのだ。ユネたちにとって町は確固たる現実の世界であり、起点となる場所である。だからユネらは、現実を広げて世界の大きさを知るために外に出る。札幌や京都に向かい車やビルを見て驚く。だがサクヤは、そもそも広げるべき現実を持たない。この世界が現実であることを素朴に信じることができない。ここが現実であり、今が現在であることを受け入れるためには、オーロラの外に出なくてはならない。しかしサクヤは、オーロラの内側の町の不気味さ、そしてプレイヤーの欲望の不気味さを、簡単に無かったことはできない。だから彼女は、少なくとも今はまだ、オーロラの手前に立っている。不気味な夢のリアルな感触を、私たちはまだ手放すことができない。

 

追記1。聖書モチーフなので当然と言えば当然なのだが、本作品と幾原邦彦輪るピングドラム』には符号する点がいくつもある。親の罪を背負った子の世代の問題。目的のための手段ではない価値(宗教的価値/美的価値)のために引き起こされるアポカリプス。運命の果実を食べることによる世界の乗り換え。桃果=林果。

追記2。リラが青の果実の摂食者として、対応する赤の果実の摂食者が誰なのかが結局わからない。わかる人いれば教えてください。このままでは赤の果実を食べたのはプレイヤー自身だった的なメタ的解釈で納得してしまう。

*1:サクヤとユネの濡れ場がノーマルルートにはない(アフターに集約されている)ということもまた、不気味さの醸成に拍車をかけている。Hシーンは特定のキャラとの一体感をとても強めるから、キリエもしくはコノハとのHシーンのみを経験したユーザーにとって、ユネやサクヤの言葉は強烈に響く。