いるかホテル

小説、映画、ノベルゲームが好きです

『彼氏彼女の事情』

庵野秀明彼氏彼女の事情』を見終わった。

これまでそこそこたくさんのフィクションに触れてきたけれど、ある作品に対して本当に何も語りたくないと感じたのははじめてだった。

 

物語があまりに完璧だと「何も付け加えることはないけれど、この物語を語り継いでいかなくちゃいけない」とかすぐ思うし、

物語がバッドエンドだと「批評を紡いでいくことだけが登場人物を救うことなんだ」とかすぐ思うし、

物語がまったくダメだと「作品の価値は人の好みとは違うところにあるのだから、良くない作品に対してはちゃんとダメだと言わなくちゃいけない」とかすぐ思う。

 

でもこの作品については本当に何も語れない。

この物語にあとワンカットでも、一分でも、一言でも何かが付け加わったなら、その途端に宮沢と有馬の関係は終わりへと進んでしまうし、そもそも作品が根本的に壊れてしまう。

 

そのことを二人はちゃんとわかっているし、庵野もわかっている。

だから第二十四話のAパートはああいう作りになっているし、最終話で「つづく」のも椿と十波だ。

 

「たとえ痛みを受け入れてでも現実を直視しろ」なんてメッセージいまやありふれてしまったし、そんなメッセージも結局、「この作品にはそういう痛烈な皮肉が込められているんだよ」と得意げにまくし立てるコミュニティを作るだけだった。

そんなおしゃべりがどれほどなされようと、キャラクターは傷つけられないし、作品は壊れないから。

 

彼氏彼女の事情』はもっとずっと遠いところにある。

彼氏彼女が抱く自分たちの終わりの予感は、(こうした)おしゃべりによって、もう予感ではなくなってしまう*1

*1:「絶対好きなんで早く見てください」とせかし続けてくれた藤井くん、本当にありがとう

アスカやサリンジャーについての話

ずっとアスカのことを考えている。

前回の記事で書いたのは一般的に通用するだろうというシンエヴァ評で、個人的に突き刺さった部分は結局アスカの描写に集約される。

それについてはなんとか文字にして「アスカについての個人的な話」とかタイトルつけて残そうかと思っていたのだけど、どう書いてもあまりにもあまりにもなのでさすがにやめた。まあ、いつも失ってから気づくみたいな話。

 

 

一週間前にシンエヴァ観て以降オタクコンテンツについてはいっさい触れていない。でも本は読みたいのでサリンジャーやらカフカやらサマセット・モームをせっせと読んでいる。

サリンジャーの『フラニーとズーイ』が未読だったので読んだら予想をはるかに超えて素晴らしかった。というのも、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とか『ナイン・ストーリーズ』は実はそこまでハマりきれなくて、『フラニー』の期待値もそんなに高くなかったのだ。

けれどもこれは別格だった。なんというか、自分自身の欲求——より正確に言えば、こんな欲求を持ちたいとかあんな欲求は持ちたくないという二階の欲求に対して、どういうふうに接し、歩み寄るかといった話だ。そもそも『キャッチャー』だって、社会に対する若者の反抗小説といったクソみたいなレッテルを剥がしてもっと繊細に読まれるべきなんだろう。そもそもホールデン、反抗なんかしてるか?

(オタク話に戻すと、だから帆高が『キャッチャー』を抱えてフェリーに乗っていることに「うんうん」とか安易に納得してしまってはダメなのだ。新海は良くも悪くもそういう作家でもう仕方ないけど、天地がひっくり返っても庵野はシンジにカフカとか持たせたりしないことだけは確かだ。)

というわけでグラス家が心に巣くっている。佐藤友哉の鏡家再読もそろそろかもしれない。

 

 

好き嫌いといった嗜好の問題ではもはやないにしても、エヴァを超える作品やアスカを超えるキャラには今後もう出会わないであろうことは、さっぱりとした気持ちにさえさせられる。

そんな感じで、ずっとアスカのことを考えている。

 

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について

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以下ネタバレ感想。

 

本作品は庵野秀明新世紀エヴァンゲリオンを終わらせる物語である。それ以上でも以下でもない。

だがエヴァが終わるということは、単にひとつの作品が完結するという事態にとどまらない。シンエヴァは、新世紀エヴァンゲリオンに影響をうけた95年以降のすべてのサブカルチャー清算してしまった。それが私の見立てである。


シンエヴァには、95年からエヴァの影響下で育まれてきた物語の類型が数多く、あるいはすべて詰まっている。


たとえば、終末後の荒廃した世界において、抑鬱状態の少年少女が閉鎖共同体のなかで土着的な愛情を知るポスト・アポカリプス的物語。

たとえば、アトラクションに乗っているかのようなめまいを誘う戦闘表現やエモーショナルな台詞回しが、ベタなナショナリズムと結びつく決断主義的物語。(ヤマト作戦!)

たとえば、魔術や霊能力のような人ならざる能力と、仮想現実や多世界宇宙の舞台背景がミックスされた新伝奇SF。

たとえば、片想いの矢印が入り混じった結果、最終的に登場人物すべてが誰もあぶれずにカップリングされる青春ラブコメ

たとえば、ある一定期間を周期的に繰り返すループ世界において、そのそれぞれの周回における人々の存在や選択を祝福し昇華するようなセカイ系+ループもの。


これらが具体的にどういう作品で、シンエヴァのどこがそうなっているかを長々解説するような野暮なことはしない*1。とにかく上述したような物語群はすべて、新世紀エヴァンゲリオンという父が生み出した子どもたちだと言える。

だから、成長したシンジが父の罪を背負い傷ついたチルドレンを救済するラストシーンは、私には、エヴァによって産み落とされてしまった95年以降のすべてのアニメやゲームやライトノベルと、それらによって繋がり導かれてきた人々への手向けとして映った。


祝福されるのは喜ばしいことである。だが「おめでとう」と言われることの苦しみは、もうその後に何も続けられないことだ。

私たちは、もう何を書いても、何を考えても、その終着点がシンエヴァなのだと知ってしまった。新世紀エヴァンゲリオンのある部分を拡大し、ある部分を縮小することでなんとか物語ってきた私たちの試みはすべて、他ならぬ庵野自身によって見透かされ、精算されてしまった。本作の主題歌である「One Last Kiss」は、「もういっぱいあるけど、もう一つ増やしましょう」と歌う。正確にいえば、「もう一つだけ」なのだ。いっぱいある「エヴァのような作品」のリストは、シンエヴァによって閉じられる。


ポスト・シンエヴァの時代は、今を生きて新しい何かを生み出そうとする人にとって間違いなく苦しい時代だ。それは動かしようがない。

ただしひとつ忘れてはいけないことは、95年当時のクリエイターたちも、きっといまの私たちと同じ心境だったのだろうということだ。彼女/彼らは、もうエヴァを越えることは不可能だと絶対に感じていたはずだ。四半世紀たって、そのことは証明されてしまったのかもしれない。だが少なくとも、当時のクリエイターたちのもがきは、エヴァをリアルタイムで知らない私たちにたくさんの大切な作品を残してくれた。そうした先人たちの意志を裏切らないために、シンエヴァという終着駅が見えていたとしても、私たちはたくさんの迂回路をせっせと作り続けなくてはならないのかもしれない。

 

いずれにせよ、そもそも何かを本気で考え、書き、伝えることが楽な作業であるわけがないのだ。甘えようとする私たちを蹴りとばす孤高の姫として、シンエヴァはそのことを教えてくれる*2

*1:ひとつだけ言うと、少なくとも僕が『CROSS†CHANNEL』を作った田中ロミオだったなら、チルドレンを一人ひとり空に還し自らの命を絶とうとするシンジのエンディングを観て、「エヴァにこれやられたら俺はこれから何作って食っていけばいいんだよ」とキレる。

*2:本記事は、@kyawasemiとの個人的な話し合いののちに書かれた。自分一人では思いつかなったであろう観点が、記事の内容にたくさん含まれていることは付言しておきたい。

R.I.P. Nujabes

先日2月26日は、敬愛するトラックメイカNujabesの11回忌だった。

しばしばNujabesはlofi chillやjazzy hiphopとして括られる。けれどそういう音楽がなぜか流行りだす以前から、すでに彼はそうしたカテゴリのずっと向こうを見据えて音楽を作っていた。

 

命日のあたりは毎年東京と大阪のクラブハウスでNujabesオンリープレイのイベントが開かれる。僕は予定がなければできるだけ行くようにしていて、毎年それが一年の経過をもっとも感じさせてくれる出来事だった。のだけど、今年はコロナがあって当然無開催。とても寂しい。

 

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個人的に一番好きな曲は、ヒップホップMCのShing02との共作Luv(sic)シリーズの最後を飾るLuv(sic) Grand Finaleだ。もう何年も前に六本木のTSUTAYAでこれがかかっていたのがNujabesの聴きはじめで、衝撃を受けてすぐさまShazamを起動したことをよく覚えている。

とにかくすべてが美しいが、あえてなところから言うと歌詞の出だしがやばい。"I met a metaphorical girl in a metaphysical world"である。

 

Luv (sic) Grand Finale (feat. Shing02)

Luv (sic) Grand Finale (feat. Shing02)

  • Nujabes
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

music.apple.com

 

Nujabesクラムボンtoeと共同制作していたことでも知られていて、そうした流れでポストロック系のファンも流れ着いていた。

今生きていたら誰と、どのような媒体で作品を発表していたのだろうとつい考えてしまう。(ヒプマイに提供していないことだけは確かだ。)

 

まあとにかく来年は、ハイネケン片手に「ああもう一年たったのか」と感じられますように。  

るぺかり

圧倒的初期西尾維新感『冥契のルペルカリア』(ウグイスカグラ)いきます*1

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*1:天使奈々菜は葵井巫女子の親戚で、匂宮めぐりは殺し名第一位匂宮雑技団の一族で、折原氷孤の「あはっ」は荻原子荻リスペクト以外のなにものでもないと思ってる

舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』について

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死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(村上春樹ノルウェイの森』) 

人の人生の中に《死》はある。《恋人の死》だって起こりうる。誰にでもだ。でもそれを書くとき、それがいかに悲しく悔しいかなんてことには僕は興味がなくて、僕が言いたいのは、その悲しみと悔しさの向こうに何があるのか、その悲しみと悔しさと同時にどんなものが並んでいるのか、ということなのだ。(舞城王太郎好き好き大好き超愛してる』)

 

 

 舞城王太郎の代表作を、思うところあって約10年ぶりに読み返した。あらすじを書くような小説でもないので、wikiのリンクだけ貼って感想へ。

 

 小説についての、そして恋愛についての小説のひとつの到達点。一生のうちにそうそう出会えることのない完璧な小説。たとえばある種の人々にとってロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』がバイブル視されているように、本書も愛についてのマイルストーンとしてきっと歴史の中で読み継がれていく。

 本作が傑出している点は、「人を愛することは物語を紡ぐことである」というメッセージのその先まで描いていることだ。それこそバルトが前述書で「一目惚れはつねに過去形で語られる」と述べたように、私たちは人を愛する(愛した)とき、愛する人との過去の出来事をひとつの相のもとで関連させ、意味づける。たとえば出会いの瞬間を「あれは運命だった」と評したり、相手のなんでもない言葉を「私を意識して言ったことだ」と解釈したり、とにかくさまざまな偶然の出来事の連なりを、すべて自分(たち)の愛の原因もしくはその結果として生じたものとして語る。愛はこのように、諸々の出来事を物語化する作用を持つ。

 「愛情と物語は、ひょっとしたら同じものなのかもしれない。」(170)けれども、それで終わりではない。愛による出来事の物語化は、当然のことながら現実世界の制約を受ける。翻って言えば、あらゆる出来事を何の制約もなく好き勝手に意味付けることはできない。私たちは、自らの認識から独立した外界の出来事を材料として物語を組み立てるしかないし、さらには、できあがった物語が現実に(そしてなによりも愛する人に)与える影響をつねに意識せずにはいられない。つまり出来事の物語化は、その材料の調達とのちの影響という二つの側面において、現実の制約を受けている。

 本作は、単に愛と物語創作の類似性を示すだけにとどまらず、創作された物語が被る上述したような現実の制約を強く自覚している。そのことは小説の随所から見てとることができる。たとえば、<柿緒Ⅰ>において治が書いた作中作である『光』は、そのまま<智衣子>の現実と符号してしまう。<佐々木妙子>において夢の世界のヘビは現実の教室を襲うおっさんになり、夢で出会った初恋の佐々木妙子は社民党の土井党首になる。<ニオモ>におけるニオモは、神が見せている幻なのか本物の彼女なのか見分けがつかない。<柿緒Ⅲ>では柿緒の弟が「自分たちのことを書かれた」と感じ治と縁を切る。そもそも<智衣子>のASMAだって東だ。

 そしてとにかくこれらのエピソードから浮かび上がるのは、自らの手を離れた物語が現実でどのようなものに変わってゆくのかについて、私たちは無力であるということだ。出来事がどれほどロマンティックに物語化されようと、それが愛する人に受け入れられるかはわからない。言い換えれば、愛する人が私と同じフィクションを生きてくれる保証はない。そのとき私たちは、誰のことを責めることもできない。というのも、諸々の出来事は私の価値づけから独立に存在し、「客観的な重要度では同じ」(166)だからだ。世界にとっては、「天井の木目を見つめ、ブラインドの色を選び、カワハギの残りを口に運び、飛行機の時刻を調べ、ミリオンバンブーを買い求めるその全ての一瞬一瞬に僕が柿緒を失うことと同じだけの意味と大きさがある」(168)。だから「愛とは祈りで、物語も祈り」(170)なのだ。いつか治は柿緒を裏切るだろうし、そのことを治は自覚している。そのような現実の制約を意識しながらも、諸々の出来事への注意や関心を偏在化し、そのようにして紡がれたフィクションが二人にとっての単一の物語となることへの願い、それが愛と物語を導く祈りである。

 

 とまあ以上はいわば教科書的な感想で、ここで終わって「すごい作品だった」でも良いのだけど、最後に自分が本書で一番ぐらいに好きなところを書く。それは<柿緒Ⅲ>にある「僕は小説を書くために生きているんではなくて、生きていて小説を書いているのだ。」(166)という言葉だ。人生でとても大切な何かxがあるとして、それは容易に「xのために生きている」という目的の連関の中に落とし込まれる。あるいはその逆張りとして「生きるためにxをしている」とうそぶかれたりもする。けれどもここで舞城が教えてくれるのは、自分にとって本当に大切な何かや「生きること」それ自体は、理由づけの空間からすり抜けるということだ。治は、生きていて小説を書き、生きていて柿緒を愛している。それらは生きることに包含されている。そしてここでの包含関係は、けっして理由づけの関係を意味しないのだ。

ブログの名前

ブログの名前「いるかホテル」の由来は、敬愛するブログ「ワザリング・ハイツ」を意識して。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』に対抗できるのは村上春樹の「いるかホテル」ぐらいでしょうという。

 

sengchang.hatenadiary.com

 

「ワザリング・ハイツ」が素晴らしいのは、たとえばイギリス文学が好きでディケンズの感想をサーチしていたらいつの間にか『腐り姫』をプレイしていた、みたいな回路を提供していること。何にせよ本当に価値あるものを残していくためには、「XX年代はアツかった!!」みたいな同窓会語りに終始しても仕方ない(それはもちろん楽しいんだけど)。いまの中高生とかに「結局そのムーブメントに乗れんとあかんのやろ」って思わせてしまったらダメで、そう考えると、今後何十年何百年残っていく古典作品とノベルゲームやなんやを同じテーブルに乗せて論じる人がいることを見せていくのは大事。もちろんそれはひと昔前に流行ったような、ラノベやゲームを純文学に「引き上げる」ような態度とはまったく違うこと。

 

・カーソン・マッカラーズ『心は孤独な狩人』について - いるかホテル

記事をほとんど書き終えてから知ったのだが、この作品の映画が1968年に作られていて、町山智浩が『トラウマ映画館』の中で取り上げている。映画は未見だが、ミックらの救われなさはきっちりと描かれている代わりに、シンガーはよき聞き手に改変されているようだ。あとさすがに本記事内にかけなかったけど、これ書いているときには、シラスでの東さんの神様批判とかが頭にあった。萌えの押し付け。「聞きたいことを聞く」こと。