以下ネタバレ感想。
本作品は庵野秀明が新世紀エヴァンゲリオンを終わらせる物語である。それ以上でも以下でもない。
だがエヴァが終わるということは、単にひとつの作品が完結するという事態にとどまらない。シンエヴァは、新世紀エヴァンゲリオンに影響をうけた95年以降のすべてのサブカルチャーを清算してしまった。それが私の見立てである。
シンエヴァには、95年からエヴァの影響下で育まれてきた物語の類型が数多く、あるいはすべて詰まっている。
たとえば、終末後の荒廃した世界において、抑鬱状態の少年少女が閉鎖共同体のなかで土着的な愛情を知るポスト・アポカリプス的物語。
たとえば、アトラクションに乗っているかのようなめまいを誘う戦闘表現やエモーショナルな台詞回しが、ベタなナショナリズムと結びつく決断主義的物語。(ヤマト作戦!)
たとえば、魔術や霊能力のような人ならざる能力と、仮想現実や多世界宇宙の舞台背景がミックスされた新伝奇SF。
たとえば、片想いの矢印が入り混じった結果、最終的に登場人物すべてが誰もあぶれずにカップリングされる青春ラブコメ。
たとえば、ある一定期間を周期的に繰り返すループ世界において、そのそれぞれの周回における人々の存在や選択を祝福し昇華するようなセカイ系+ループもの。
これらが具体的にどういう作品で、シンエヴァのどこがそうなっているかを長々解説するような野暮なことはしない*1。とにかく上述したような物語群はすべて、新世紀エヴァンゲリオンという父が生み出した子どもたちだと言える。
だから、成長したシンジが父の罪を背負い傷ついたチルドレンを救済するラストシーンは、私には、エヴァによって産み落とされてしまった95年以降のすべてのアニメやゲームやライトノベルと、それらによって繋がり導かれてきた人々への手向けとして映った。
祝福されるのは喜ばしいことである。だが「おめでとう」と言われることの苦しみは、もうその後に何も続けられないことだ。
私たちは、もう何を書いても、何を考えても、その終着点がシンエヴァなのだと知ってしまった。新世紀エヴァンゲリオンのある部分を拡大し、ある部分を縮小することでなんとか物語ってきた私たちの試みはすべて、他ならぬ庵野自身によって見透かされ、精算されてしまった。本作の主題歌である「One Last Kiss」は、「もういっぱいあるけど、もう一つ増やしましょう」と歌う。正確にいえば、「もう一つだけ」なのだ。いっぱいある「エヴァのような作品」のリストは、シンエヴァによって閉じられる。
ポスト・シンエヴァの時代は、今を生きて新しい何かを生み出そうとする人にとって間違いなく苦しい時代だ。それは動かしようがない。
ただしひとつ忘れてはいけないことは、95年当時のクリエイターたちも、きっといまの私たちと同じ心境だったのだろうということだ。彼女/彼らは、もうエヴァを越えることは不可能だと絶対に感じていたはずだ。四半世紀たって、そのことは証明されてしまったのかもしれない。だが少なくとも、当時のクリエイターたちのもがきは、エヴァをリアルタイムで知らない私たちにたくさんの大切な作品を残してくれた。そうした先人たちの意志を裏切らないために、シンエヴァという終着駅が見えていたとしても、私たちはたくさんの迂回路をせっせと作り続けなくてはならないのかもしれない。
いずれにせよ、そもそも何かを本気で考え、書き、伝えることが楽な作業であるわけがないのだ。甘えようとする私たちを蹴りとばす孤高の姫として、シンエヴァはそのことを教えてくれる*2。